ぽたっ、、、、、ぽたっ、、、、、、

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 今日は、また雪がしんしん降っているのですが、2、3日前までは、お日様も出て、気温も0度以上に上がり、窓の外に見えるつららが形を変えて行く様子を、あったかな家の中から楽しむ事が出来ました。
 つららから溶けた水の落ちる音を描写する言葉って何かな?とふと疑問に思い、頭の中であれこれ考えてみました。「ポトン、ポトン」、「ぽた、ぽた、」「ぽしゃん、ぽしゃん」、「DRIP, DRIP 」。いろいろな言葉が、思い浮かびました。
 
 話変わって、10代の頃、日本に留学経験のあるトニーは、日本語で特に悩まされたのは、擬音語だと言います。「なんだか、わくわくする」とか、静電気いっぱいの毛布をさして「ぱちぱちして痛いね」とか、「その服、だぶだぶすぎるよ」とか、「がりがりに痩せたね」(この言葉は、あり得ないけど)なんて、例を挙げればきりがない。 擬音語って、私也に考えると、感覚を言葉に表しているものだと思う。 これは、日本の文化背景を理解しなければ、外国の人が使いこなすのは、なかなか難しいような気がする。 5年程前に通っていたアクロン大学で、英作文のコースを取った時に、講師が言っていた言葉、「日本人の書く文って、何を言っているのか分からない。」という言葉が思い出される。 私は、このコースで、アメリカ人に理解されやすい文の書き方の手ほどきを受けたが、何のひねりもなく、単刀直入に書かなければいけないことが、非常に悲しかった。


 さて、私が、写真の光景を描写する為に選んだ言葉は、
「ぽたっ、、、、、、、、ぽたっ、、、、、、、」
「ぽた」の後の 小さな「つ」。これは、つららの先から落ちた後に残る名残惜しさ(写真で見られる、大きな玉の後につられて落ちた、小さな玉)を描いている。そして、次の水玉がつららの先までやってくる間のわずかな時間が「、、、、、、」です。
 5歳の綾花に日本語を教える上で、どこまでをどのように、と悩む日々が続いていますが、日本語の理解というよりは、こういう日本語独特の感覚的な言葉を 是非、理解して欲しいものです。 このような感覚を身につけることは、バイリンガルと言うよりは、人間的に豊かな人になること、間違いなし、だからです。

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またまた休校でーす

 今年の冬は、寒さが週ごとに、厳しくなったり、ゆるくなったり。 雪も、積もったかと思えば、翌週には、溶けてしまって、って感じ。 なので、本格的な雪遊びというものを、未だしていません。

 さてさて今日は、大雪警報が丸一日出ている為なのか、学校は、休校となりました。ここオハイオ北西部の本日の休校数は、かなり多いようです。チェックしたウエッブサイトでは、380校が休校となっていました。 朝一番に、ドライブウエイに駐車している車を見ると、15センチ位の積雪があった。早速、ドライブウエイの雪かきをしましたが、雪質も、水気を含んでいて、結構重かったので、いつも以上に時間がかかってしまいました。

 会社に出かけたトニーを見送った後は、学校も休みのことなので、ゆっくりしていたかったのですが、今日は、私の矯正歯科の予約が9時半に入っていたので、家でぬくぬくする間もなく、出発。綾花は、こんな時に限って、2歳の頃遊んでいた、ごっつい木のおもちゃを持って行くと言い張って聞かないので、仕方なくそれを持たせ、歯医者さんへ。今日は、悪天候のためなのか、患者さんは、私以外に一人だけ。行ったら即、治療を開始し、30分程で仕上がってしまった。短時間で済んだのは、歯並びも良くなっているので、治療自体が単純な作業なせいもあるのだろう。

 歯医者さんのあとは、この寒さだし、午後から雪が沢山降ると聞いていたので、すぐ家に帰ることに。こんなおやすみの日には、ヴァイオリンも、日本語も、クラフトも!なんて、朝起きた時には、思い切り張り切っているものの、家について一段落すると、なんだか気が抜けてしまって、ヴァイオリンの練習が終わった後は、トトロの映画を綾花と見ながら、私はうたた寝。そのまま、窓の外で降っている雪の様に、 ふわふわした時間を過ごしたのでした。これで、こたつがあったら、最高なのにな。

五感の活用

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  本日は、年寄りじみた話で大変恐縮です。 
 
 ここ1年半、毎日ほぼ同じ道のりを散歩していて、季節の移り変わりが、五感を通して感じられるようになって来た。 ブレイデイーが毎回、興味深く匂いを嗅ぐ木の枝の様子や、空を行き交う鳥なども、季節に寄って異なる。 1年中忙しそうに走り回っているリス達も、冬の間は、食べ物探しに必死だけど、秋の収穫期には、簡単にお腹を満たせる為なのか、余裕をみせて仲間同士で追いかけっこなどして、私の目を楽しませてくれる。
  
 本日の散歩の際には、気温も結構上がったので、先週降った雪がとけ、雪解け水が排水溝に流れ込んで 至る所で、小川のせせらぎのような音が聞こえた。この音だけ聞いていると、まるで、春の雪山にいるような気分になってしまう。 なんの変哲もない、我が家の近所でも、こうして、五感と空想を少しばかリ活用すると、なんだかとても贅沢な気持ちになれる。これぞ、究極のリゾートでは、ありませんか。

 五感の活用と言えば、日本の俳句などは、その究極を行っている様に思う。 私は、俳句を 子供の幼いうちから詠ませることによって、感性を磨かせると言う事を、意識して、綾花に、多くの俳句を紹介してきた。 この教えは、実は、鈴木式バイオリンの創設者、鈴木慎一氏が活用していたものである。 鈴木氏は、特に小林一茶の詩を、子供達に暗唱させた。 アメリカの鈴木メソッゾでも、一茶の俳句を英語に直して、子供達に詠わせている所があると聞いたことがある。 小林一茶は、家庭愛に恵まれなかったためなのか、雀、カエルなどの身近にいる小動物などを、非常に愛し、それらを俳句の題材として多く使っている事で有名だ。 そのような、身近な自然に目を向けることで、感性が強く磨かれるというのが、鈴木氏の考えだ。 

 私は、良いと思った事は、案外なんでも単純に受け入れる性質なので、鈴木氏の考えも、素直に受け入れている。 まだまだ未熟者ですが、一茶気取りで、自分の周りの自然を、全身を使って感じようと、勤しんでいます。 そんなわけで、日々の散歩も、単純な近所の徘徊を宇宙の旅とでも変えられるような発想を持って、取り組み、非常に充実した時間を送っています。 五感の活用、是非おすすめです!

Peter and the Wolf

 今日は、我が家で恒例の、クリーブランドオーケストラのファミリーコンサートに行って来ました。 本日のテーマは、Peter and the Wolf 。 このオーケストラ音楽は、絵本で物語になっているものなど出ていて、子供達にオーケストラを紹介するのには、非常に良いものだと思う。 綾花も3年前に、学校の音楽の時間に、Peter and the Wolf を習って以来、Peter and the Wolf ごっこにはまった時期があった。 それを機に、Peter and the Wolf のCDを買って常に聞いていたので、各役の楽器は、もちろん、物語、音楽すべて暗記してしまいました。 時には、家の中で、恐い話をすると、 Wolfの部分をハーモニーで歌ったり、彼女の中に、Peter and the Wolf は、しっかり染み付いております。

 さて、今日のコンサートですが、さすが世界で5本の指に入ると言う、クリーブランドオーケストラだけあります。 コンサートの構成の質の高さに感激し、また、このような機会に巡り会えた事を幸運と思うしかない!と言ったものでした。 コンサートの内容は、メインのPeter and the Wolf の演奏の前に、まずは、4曲の音楽を披露してくれました。 その4曲は、ストリングス(弦楽器)によるもの、フルートによるもの、テインパニーによるもの、ブラス(吹奏楽器)によるもの。 これは、ピーター役のヴァイオリン、小鳥役のフルート、狩人役のテインパニー、猫役のクラリネット、おじいちゃん役のバズーン、アヒル役のオーボエの音を紹介する目的で、このように構成されたものと思います。 この中で、特に感動したのが、テインパニーでした。 テインパニーといえば、オーケストラの中でも、常に後ろの位置で、メインの音楽を奏でると言うよりは、音楽にメリハリを付けるための楽器と言うイメージが強いのですが、今日は、Etude for Timpaniという、テインパニーのみの音楽を披露してくれました。 ここで知ったのですが、テインパニーにも、グリッサンドという技術が使われるんです。グリッサンドと言えば、3週間程前に、綾花の課題に出た、新しいテクニックですが、テインパニーでも使われるなんて、私も綾花もびっくりでした。

 そして、最後は、お待ちかねのPeter and the Wolf の演奏です。 地元、クリーブランドアートスクールによる、ピーター、オオカミ、小鳥、猫、アヒルの人形が登場しましたが、こちらも驚く程の出来映え。 普段からなじみ深いお話でしたので、綾花は、人形の次の動きなど予測しながら楽しんでおりました。 毎回クリーブランドオーケストラのファミリーコンサートとミュージカルレインボウに来るたびに思うのですが、これは、音楽に馴染みのない大人にとっても、クラッシック音楽が非常に身近で楽しく感じられる、素晴らしいイベントだと思います。 私もトニーも、このような高い質のコンサートに子供を連れてこられる事に、非常に感謝している次第であります。

月食 〜視点を変えて〜

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こちらの、見事な写真は、ナサのサイトから借りたものです。
この写真は、先日の月食時の月からの風景です。 地球と太陽が重なっている様子、これは、月からみたら、日食なんですよね。 月食を眺めていた時の綾花の疑問、「お月様に住んでいる人は、寒いのかな?」の答えと言うわけでもないのですが、同じ出来事を、違う視点から考える、ということも、なかなか興味深いでは、ありませんか。
さて、この写真への綾花の反応は、というと、 「太陽を見ると目がやけちゃうから、この写真は、見られない!」だそうです。 何事も、親の考えとは、ちがうのが、子どもの、かわいくってにくいところです。 

赤いお月様

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 昨晩の月食は、満月だっただけに、お見事でしたね。お月様全体が、地球の影にかかってしまう皆既月食でしたが、次回、アメリカから見られる皆既月食は、2010年だと言う事。 なので、この機会を逃すのは、大変惜しいと思い、毎晩8時半にベッドへ行く綾花も、昨晩は、月全他が隠れる午後10時ごろまで、見学させてあげました。
   月食と言うと、「お月様が赤くなる」というのが、トニーの口癖で、この言葉から、綾花は、真っ赤なお月様を想像していたと思います。 実際、月全体が影で覆われた時は、ほんのり、赤茶って感じでしたので、その光景を感慨深く眺める余地なく、綾花の「赤じゃない!」 ブーイングのはじまりです。(子供って、本当に極端なんですよね)

 昨年夏頃から、綾花は、宇宙関連の事を学んでいたので、我が家でも、出来るだけ多く、宇宙関連の本、ビデオ、テレビ番組(ナショナルジオグラフィックチャンネルの”Universe”シリーズは、一押しです。)など、観ていたこともあり、綾花は、地球の影が、お月様にうつるということを自然に受け止めていたようです。 だんだん影に覆われて行くお月様をみながら、「お月様に住んでいる人たちは、今、寒いのかな?」と言っていました。 「人が住んでいたら、きっと寒いだろうけど、お月様に人は、住んでいないからね。石ころが、寒がっているんじゃない?」とトニー。 そして、「春に、ワシントンDCに行った時、お月様の石を見ようね。」と、今後の楽しみに結びつけて、月食見学終了。 そのあと、ベッドのなかで、「ねえ、お母さん。お月様の石は、地球の石と違うの? 綾花は、石ころより、世界一大きい、ダイヤモンドが見たいよ。」と、こぼして、直ぐに寝てしまいました。 ちなみに、ワシントンDCのスミソニアン博物館に展示されているダイヤモンドは、世界一大きいのでなく、世界でも大きいものの1つ、と言う事なのですが、綾花は、世界一と思い込んでおります。 

 そうそう、去年、まあまあ質の良いカメラに買い替えたので、久々に、三脚など出して、夜景モードで月食の様子を撮影してみました。 昔、マニュアルの一眼レフで夜景を撮影する時には、かなり苦労しましたが、デジカメの機能の良さのおかげで、本当に簡単に写せて、感激です。(しかし、写真の質は、やはり違うんだけどね。)

運命を感じるとき

 本日は、ちょっとばかり、変わり種の話。

 私は、人との出会いや関係など、偶然なものでなく、前世から仕組まれたものという事を信じている。ここ数年、日本では、江原なんとかさんの、「スピリチャルなんたら」っていうのが流行っているようだけど、私の信じているものも、そんな感じだと思う。これって、仏教的な考えなのかな?(カトリック家族で育ったトニーは、前世は、全く信じられないと言っているし。) では、なぜ 前世など信じるかというと、これまた、当てつけのようなんだけど、人間40年近く生きていると、気のあわない人間と、何故か、切れない縁が続く事があります。こちらとしては、関わりたくないのに、何故か、人の人生に踏み込んで来て、荒らして行く人(言い過ぎか?)。この人の存在って、いったいなんだろう? と考えたとき、私の中で答えとなったのは、前世で、私がした事を、今度は、私にしているのだ、ということ。 ようは、自分自身へのしっぺ返しなのだと、、、、だから、今世においては、その償いを行なって、来世では、もっと立派な人間になろうと。 そう考えるしかないってところから、私の中で運命論みたいなものが生まれた訳です。(まあ、こう考えでもしないと、腹の虫を治まらせる事が出来ない、未熟者の私だと言う事です。)
  
 こんな風に、運命を感じて生きていると、時々、「これは、まさしく運命なの!」って言う機会に出会う事もあり、このように考える事も、人生のスパイスというか、刺激があって、なかなか楽しいものでもあります。 私の中で、大きな運命を感じるのは、、やはりトニーとの出会いです。アメリカは、オハイオで育った彼と、日本の田舎で育った私が、出会って一緒に暮らしているというのは、本当に奇跡的に近い事だと思います。私の母にしてみると、「なぜアメリカ人でなければいけないの?」と言う事ですが、それにも何か理由があるのでは?というのが、私の思う所です。
  
 そして、昨日、「私がアメリカにきた理由というのが、これだ!」と思う出来事がありました。個人的には、非常に刺激的では ありますが、まあ他人が聞いたら、「ふーん」で終わる事なので、具体的には、書きません。まあ、何年かして、昨日の事を思う時の為に書き留めておきたかっただけです。
 
 そういえば、ベートーベンは、運命を「じゃじゃじゃジャーン」で表現しましたが、私は、「じゃじゃじゃジャーン」ではなかったですね。ちなみに、昨日の出来事を振り返って、私の頭の中にこだましたのは、Dvorak の「Songs my mother taught me」です。特に哀しい出来事でもないのに、なぜ、こんな哀しい曲だったのだろう? これも、いつか分かる日が来るのかな?
 

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